飛鳥時代の刺繍
奈良、中宮寺の「天寿国繍帳」は、国宝に指定されています。厩戸皇子(聖徳太子)の伝記である「上宮聖徳法王帝説」記載の繍帳銘文によれば、推古三十年(622年)二月に聖徳太子が亡くなられたのを妃橘大女郎が悲しまれ、天寿国における太子往生のさまを図像によって見たいものと天皇に申し上げ、お許しを得て采女たちに刺繍させて、繍帳二帳をつくったという。現状は、紫羅地の飛鳥時代の原繍帳と紫綾・白平絹地の鎌倉時代に作り直された新繍帳の断片が1つの画面に貼り混ぜになっている。原繍帳では、Z撚りの繍糸を用いて返しぬいをほぼ平行線状に並べている。 現存の断片から当初の大きさや構図を想像することは難しいが、松浦正昭氏(元東京国立博物館上席研究員)の「鎌倉時代まで法隆寺に伝来したものであるから、法隆寺に祀られた聖徳太子の御影(夢殿救世観音像)を荘厳するための繍帳二帳であったと考えるべき」との説がある。
奈良時代の刺繍(撚り糸)
奈良国立博物館所蔵の国宝「刺繍釈迦如来説法図」は、もと京都山科の勧修寺に伝えられたもので、「勧修寺繍帳」の名でも知られる。獅子座の釈迦を中央に配し、上部には神仙の群れや天人らを、左右には菩薩形、下部には聴聞の弟子や俗形らを配す。 刺繍下地は厚手の平絹を用い、鎖繍と相良繍の二種の繍技により図柄だけでなく地全体を繍いうめる。図様に応じて繍糸の太さを変え、渦形や繧繝風に異なった手法を用いて緊密かつ重厚に表現している。また、本尊を中心とする菩薩形の様式が、法隆寺金堂の壁画と近似することなど注目される。立体感の強い仏身の表現から盛唐の影響受けた、奈良時代の制作と考えられる。なお、刺繍の欠損部には、絵筆による補修がされている。
奈良時代の刺繍(平糸)
東大寺の正倉院宝物の一つに「孔雀文刺繍」がある。紫綾地に、孔雀、花樹などの両面刺繍を施し、もとは寺院を荘厳する繍幡であったと考えられる。繍い糸は撚りのない平糸で、繍い方は、さしぬいを主体とし部分的に鎖ぬい、割りぬいなどを併用している。「花喰鳥文刺繍」と並んで正倉院の刺繍を代表する、穏やかで優美な作品である。
桃山時代の刺繍
衣装全面に刺繍を施した桃山小袖の一つに、「紅白段菊芦水鳥縫箔」(東京国立博物館)がある。能衣装で、縫箔(ぬいはく)とは刺繍と摺箔(すりはく)とを併用して文様を表したもので、女役が着用する。この一領は全体に雪の降り積もった芦を、背縫いを中心に左右へ力強く伸びるようにあらわし、その間に遊ぶ水禽を配している。芦や鳥たちには当時特有の渡しぬいと呼ばれる刺繍技法が用いられており、ふくよかに浮いた絹糸から華麗さが伺える桃山時代の作品。
江戸時代初期の刺繍
「小花鹿紅葉模様小袖」(東京国立博物館)は、黒綸子地に鋸歯形の疋田絞りが大胆な構図で、細やかな刺繍部分には、金糸の駒ぬいが効果的に使われている。この小袖は、織田家の家臣山口盛政の夫人が天文年間(1532-55年)に着用したという伝承を有する作品である。しかし地を染め分ける構図や黒地に施されている繊細な刺繍などから、その製作年代は慶長以降、寛永頃と考えられる。
江戸時代後期の刺繍
奈良市法蓮町にある興福院(こんぶいん)に伝わる刺繍掛袱紗31枚は、徳川五代将軍綱吉公が側室瑞春院に季節に因んだ祝儀の都度、贈られたと伝えられていて、現在は重要文化財に指定され京都国立博物館に保管されています。構図、配色、刺繍の技共に当時の職人の粋を集めた傑作ばかりで、日本刺繍をする者にとって憧れの作品です。
江戸時代後期の刺繍
京都・洛東遺芳館に伝わる「流水に四季花の丸文様打掛」は、文化六年(1809年)に来嫁した花嫁の打掛で、流水に花の丸を配した意匠。刺繍による花の丸は総数三十数個におよぶが、牡丹などの一、二をのぞくとほとんど重複しない。京都、円山派の絵師による写生的下絵を超えて、実際の花の美しさに迫ろうとするかのようである。水仙などの見なれた花の他に時計草・鹿の子百合など特殊な草花も見られる。